昨年広島に帰省した時のこと。慰霊碑に参った後、原爆資料館には入館を果たせなかったことは以前書きました。死者を悼み・過去を知ることは平和の時代を生きる者のつとめだと思っている私にとっては残念でした。
最近、原爆資料館の展示の一部を模したと思われる「戦争記念館」が海外にあることを知り、それを確かめたいと思うようになりました。それはシンガポールにあり、「観光コースでないマレーシア・シンガポール」(陸培春著・高文研)には、その様子が写真つきで紹介されていたのです。今年の夏、同地に行く機会があり、この「戦争資料館(Images of Singapore)」の訪問を希望したのですが、これは実現しませんでした。同館の展示内容は、シンガポールの歴史の中で’42〜’45年の日本による占領時代を「戦争年代」として取り上げ、原爆投下の事実を、その終わりの契機ととらえるもので、「観光コースでない〜」の記載でも、その意味は十分読み取れました。あの時代の加害と被害のとらえかたは立場が逆になっているとしても想像はできました。
ところが「死者を悼む」慰霊碑の訪問は、初めから予定していませんでした。シンガポールに「血債の塔」という慰霊碑があることを知っていましたが、手元のものでは場所が特定できず(シンガポール政府発行のガイドには載っていなかった)、また、ツアーの日程や目的からあきらめていました。しかし、現地でバスの窓から「塔」を確認し、そのうえ意外な自由時間ができたため、地下鉄を利用して「塔」を間近にすることができました。4本の白い柱が高くそびえるその塔は、その下に骨壺が置かれ、その由来が4つの言葉で刻まれています。訪れる人は私以外に欧州系の人が2,3人で、他に塔の下でうつぶせに倒れている(寝ている?)インド系とみられる人がいただけでした。この4つの言葉には日本語は含まれておらず、漢字表記の「日本占領時期死難人民紀念碑」が読めて、塔が日本の加害責任を象徴しているものであることがわかります。(2008.9)
中国系・マレー系・インド系・混血(英語)の言葉での表記は、同国が他民族の国であり、戦争に対するかかわりも多少異なりながらも、民族の団結を示しているものだと思いました。つまり、「内向き」の碑であるのです。戦争中、祖国が日本に侵されたため、シンガポールの華僑はビルマから雲南省への補給ルートを確保するため経済的・人的に支援しただけでなく、占領時代にはゲリラ戦で抵抗したため、日本軍による拉致・行方不明者は五万人にも達したといわれています。
シンガポールは現在、貿易の国。日本からも多くの観光客がレジャーを楽しむためにやってきます。「未来志向」の小さな島国は決して、日本に過去の「血債」を支払うことを要求していません。観光ガイドもすすんで過去のことを話したりしませんでした。しかし、この親日ぶり、「未来志向」が日本の今の状況を見るときに、間違ったメッセージを日本人に与えないか、心配になりました。