――諦めこそ禁物!強く幅広い連帯を築き上げ、たたかいぬこう
「大阪に人と物と金を集める一つの装置」と位置付けるなど、なんと小さく、漠然とした考えか。こういう時代だからこそ、知的探究の共同体として、様々な学問分野の多様な人間が集まり、大阪、日本、世界が進むべき道を探求する場としての大学が求められているのではないか。
去る5月29日に開かれた「第12回大阪府市統合本部会議」における協議事項の一つに、「経営形態の見直し項目 大学(新大学構想会議(仮称)の設置について)」が挙げられ、大阪府立大学と大阪市立大学、大阪における両公立大学の統合問題が、本格化し始めました。会議の様子は、インターネット動画サイトYou Tubeで公開されています()。http://www.youtube.com/watch?v=GnXklarFeP0
会議において橋下大阪市長は、既に大阪女子大学、府立看護大学との統合を果たした府立大学に対し、そのような経験のない市立大学の現状と大学構成員の意識に強い関心を示しました。市長のブレーンを務める上山信一氏(新大学構想会議委員)は、「学部・教員自治といえば聞こえは良いが、今まで通り仕事がしたいという感性が強く、自己革新能力がない」「国立大並みのラインアップで文学部・理学部までもつが、規模・特色とも中途半端」と、市立大学を評しました。そして、「府大・市大が統合されれば、互いに足りないところを補い合い、ユニークで大規模な大学となる」と「合理化・経費節減」に主眼をおいた国立大学改革とは異なることを強調しました。しかし上山氏は、「先端研究は国立大に任せればよい。人材を集め養成する大学へ」と続けます。この上山氏の発言の意図するところは、重大です。「身の程をわきまえ、金のかかる研究活動はおやめなさい。教育だけ行っていればよろしい」というのです。
研究活動に重きをおかず、教え教わることに特化した場は、果たして「大学」と呼ばれるにふさわしいでしょうか?まず、教員は自ら研究に精を出すプレーヤーであってこそ、迫力と説得力のある教育が行えます。世に出回っている研究成果を学び、咀嚼・整理して学生に伝えることだけでは、真の大学教育とは言えません。なぜなら、高等学校と大学の教育の間には、「学習」から「探究」へと足場を移すという、質的な違いがあってしかるべきだからです。世に広く認められ、美しい答えが用意されている内容を理解することに主眼をおく学習から、自らテーマを設定し未知の答えを探し求める活動へと、転換を起こすのです。探求という活動において、答えには普通、一足飛びには到達しません。試行錯誤を繰り返しながら学生は、辿り着いた答えは、実は一つの説であり、これまで真実だと信じて疑わなかったこともまた、一つのものの見方であることを知るのです。そして、その過程を通じて、学習した内容を生かし応用することや物事を多面的にとらえることの大切さ、さまざまな科学の分野が有機的に結びついていることを、実感として理解します。学生に対しては、教員自身が探究している姿を見せること、学生とともに研究活動に汗を流すことこそが、最良の手本となります。
府市統合本部会議において、大学の規模に関しては、「府立大学と市立大学を合わせれば、学生数約17,000、首都大学東京の約2倍という全国最大規模の公立大学が誕生する」と見得が切られました。その学生に対し、これまで通りの手厚い教育を施せる人員と施設が確保されるのでしょうか?多くの学生をマスプロダクション的に教育するという事態を引き起こすことにならないでしょうか?5月29日の会議で話題に上った大阪市立大学は、学生あたりの教員数が他大学に比して多く、一人一人を丁寧に手をかけて育て上げることを特色として謳っています。「(学生数という観点から見た)大学の規模を大きく」、そして「先端研究は国立大に任せればよい」という発言からは、大学教育の手本となるべき姿を180度改悪する方針が読み取れます。
さらに、府市統合本部会議では、産業戦略と結びついた大学戦略を練ること、大阪に産業を作り、産業を担う人材育成の専門教育機関としての大学の役割が強調されています。しかし、このような抽象的な言葉に対応した、具体的なビジョンは示されていません。今や、世界の物作りの場は、新興国に移りつつあり、日本を含む先進工業国では、産業の空洞化が深刻な問題となっています。産業活動による環境破壊は、20世紀においては、特定の地域に公害問題を引き起こしましたが、現在は地球温暖化をはじめとするグローバルスケールのものとなり、その解決のためには国際的な協調が不可欠という、そんな時代になっているのです。こんな時に、大学を「大阪に人と物と金を集める一つの装置」と位置付けるなど、なんと小さく、また漠然とした考えでしょうか。未だ我々が出会ったことのない難解な問題を乗り越えなければならない時代だからこそ、知的探究の共同体として、様々な学問分野の多様な人間が集まる大学、大阪、日本、そして世界が進むべき道を探求する場としての大学が求められるのではないでしょうか?
市立大学のホームページにアクセスすると、大学内では既に「公立大学法人大阪市立大学経営審議会」が発足し、2大学の統合のあり方についての検討が始まっていることが分かります(なお、この審議会には、7名の外部委員いるのですが、上山信一氏をはじめ、7名中実に5名が府市の「新大学構想会議」の委員です。本来、大学側と府市側の委員会は、まったく異なるメンバーで構成され、互いに意見・方針をまとめて、それらを持ち寄って検討することが、あるべき姿でしょう。ところが現状は、大学側の委員会が府市側の委員会に乗っ取られている格好になっています)。市立大学では、既に5月11日に第1回経営審議会が開催され、その会議録が公開されています(http://www.osaka-cu.ac.jp/about/incorporated/data/board_m120511.pdf)。これを読むと、大きな関心ごとは、まずは人事制度のようです。構成する人間の物の考え方こそが、その組織の性格や進む方向を決定づけますから、やはり、というところです。会議において外部委員は「組織のトップが人事権を持つというのは、本来あるべき姿」とした上で「学長(注:理事長のこと)に人事権が移ると、弊害がおきることもある。(中略)理事長に人事権が集中するという事に対して、どう歯止めをかけるかということも考えなければならないだろう」と,一応述べています。
これに対し、橋下市長のこれまでの一連の発言は、一層危険なものです。「市立大学が勢いを失いつつあるのは、学長が世の流れを見て適切に人事を行えないから。学長のマネジメントを阻害しているのは教授会であり、これを徹底的に改革していく」(3月2日市会代表質問)、「市大では、教授会による運営をなくし、組織で一番肝腎であるマネジメント改革にしっかりと取り組んでいただきたい」(5月11日大阪市立大学第1回経営審議会冒頭あいさつ)、「トップマネージャーが教授を選ぶべき。教員全員での意思決定は“前近代的”な組織運営」(5月29日第12回大阪府市統合本部会議)と、大学の自治を完全に否定し、トップダウンにより人事を進めるべきだと明言しています。これは、府立大学・市立大学の統合構想の問題にとどまらず、物事を決定する仕組みとしての民主主義を否定する橋下氏の考え方を如実に表しており、看過することはできません。
「2公立大学の統合構想を止めることは、現実的には難しい」という意見も聞きます。しかし、大学統合という改悪で、最も不利益を被るのは、これから多くのことを学び探求するであろう若者たちです。若者の未来とは、大阪、そして日本の未来です。未来を壊す暴挙を断じて許してはなりません。そもそも、この「新大学構想会議」は,議会の議決を経ずに設置されたため地方自治法に抵触する恐れがあり、活動休止中(9月現在)です。「どうせ...」という諦めこそ、禁物です。現場のまっただ中にいる大学の教職員・学生はもちろん、多くの市民・府民が強く幅広い連帯を築き上げ、最後までたたかいぬくことが、今こそ求められています。